LOGIN第23話 名前を忘れても、俺は彼女を選ぶ
目の前にいる女性が、俺にとって大切な人だということは分かっていた。
雪原で鎖に繋がれていた銀白の竜で、俺を竜帝国へ連れていき、処刑する代わりに偽装婚約を申し出た第三皇女。強くて誇り高く、他人に弱さを見せることを嫌うくせに、誰かが傷つけば自分の痛みまで後回しにする、不器用で面倒な女性だ。
彼女と交わした会話も、一緒に食べた料理も、眠れない夜に窓辺で過ごした時間も覚えている。
それなのに、名前だけが分からない。
「遥人、私の名前を言ってください」
彼女は俺の左手を握り、真銀の環へ自分の魔力を流し込んでいる。金色の瞳に浮かんでいるのは怒りではなく、俺が答えられないことをすでに分かっている人間の恐怖だった。
「待ってくれ。思い出せそうなんだ。最初の音は……」
頭の奥に銀色の光が浮かぶ。
あと少しで掴めると思った瞬間、地上から響く大合唱が魔導貨車の天井を震わせた。
『如月遥人の名を世
第23話 名前を忘れても、俺は彼女を選ぶ目の前にいる女性が、俺にとって大切な人だということは分かっていた。雪原で鎖に繋がれていた銀白の竜で、俺を竜帝国へ連れていき、処刑する代わりに偽装婚約を申し出た第三皇女。強くて誇り高く、他人に弱さを見せることを嫌うくせに、誰かが傷つけば自分の痛みまで後回しにする、不器用で面倒な女性だ。彼女と交わした会話も、一緒に食べた料理も、眠れない夜に窓辺で過ごした時間も覚えている。それなのに、名前だけが分からない。「遥人、私の名前を言ってください」彼女は俺の左手を握り、真銀の環へ自分の魔力を流し込んでいる。金色の瞳に浮かんでいるのは怒りではなく、俺が答えられないことをすでに分かっている人間の恐怖だった。「待ってくれ。思い出せそうなんだ。最初の音は……」頭の奥に銀色の光が浮かぶ。あと少しで掴めると思った瞬間、地上から響く大合唱が魔導貨車の天井を震わせた。『如月遥人の名を世界から消せ。その力を、真なる勇者へ返せ』何万もの声が俺の名前を呼び、反逆者、裏切り者、災いの使者という意味を押しつけてくる。そのたびに、銀色の光は指の間から零れる砂のように消えていった。「悪い。どうしても出てこない」「謝らないでください。あなたが悪いわけではありません」彼女はそう答えたが、俺の手を握る力がわずかに弱くなった。『頭では分かっている。遥人は名前を奪われているだけで、私を忘れたいわけではない。それでも、名前を呼んでもらえないことが、こんなに怖いなんて思わなかった。私だけが二人の時間を覚えていて、遥人にとって私は知らない女になってしまったら、私はどうすればいいの……』その声は聞こえている。俺の耳ではなく、魂へ直接触れてくる彼女の本音だけは、名前を失っても消えていない。「あなたの心の声は聞こえる。怖がっていることも、俺に忘れられるのが嫌だと思っていることも分かる」「分かるなら、わざわざ口に出さないでください。私
第22話 名前を捨てた処刑人たち坑道の前後に灯った赤い明かりは、松明でも魔導灯でもなかった。暗闇の中を歩いてくる者たちが身につけた、白い仮面の眼窩から漏れている光だった。前方から十二人、後方からも十二人。全員が人間と同じ背丈をしているが、足音は不自然なほど揃っており、鎧の擦れる音まで一つに重なっている。まるで二十四人の兵士ではなく、一匹の巨大な生物が、前後から俺たちを挟み込もうとしているようだった。「王国最強の処刑部隊と言っていましたね。所属と能力を説明しなさい、アルベルト」ガルディア皇帝に命じられ、独房から連れ出されたアルベルトは、壁へ背を預けたまま処刑人たちを見つめた。「彼らに正式な部隊名はない。王国では無銘衛士と呼ばれていた。死刑囚、戦争捕虜、王家に逆らった神官や魔術師から、戦闘能力の高い者だけを選び、名前と過去を奪って作られた部隊だ」「あなたが作ったのですか」リシアの問いに、アルベルトはすぐ答えなかった。その沈黙だけで十分だった。「人間王国と最初に接触した頃、私は彼らの術式へ竜族の命令魔法を組み込む方法を教えた。戦争を長引かせている強硬派を排除するため、汚れ仕事を引き受ける兵が必要だと考えたからだ」「国を救うためなら、名前を奪った人間を道具にしてもよいと考えたのですね」「そうだ。そのときの私は、正しい犠牲だと思っていた」アルベルトは言い訳をしなかった。かといって、罪を認めたから許されるわけでもない。自分の過ちを正直に語る姿には、反省よりも、自分にはもう死ぬ以外に責任の取り方がないという諦めが滲んでいた。前方の処刑人たちが、同時に武器を抜いた。剣、槍、弓、鎖鎌。それぞれ異なる武器を持っているのに、構えるまでの動きには一切のずれがない。後方の十二人も無言で散開し、逃げ道を塞ぐ。「呼びかければ、名前を取り戻せるの?」フィーネが黄金の鐘の欠片を握りしめた。「無理だよ。この人たちの中から、名前が聞こえてこない」俺は処刑人たちへ意識を向けた。
第21話 皇帝を乗せた魔導貨車が、正面から突っ込んできた対向貨車の認証に使われている真名は、ガルディア・ヴァルドレイク。竜帝国皇帝であり、リシアの母親の名前だった。「認証名が使われているだけで、母上が乗っているとは限りません。皇族の真名を盗み、魔導具を動かす鍵として利用する術式があることは、ここまでの出来事で分かっています」リシアは冷静に言ったが、その手は俺の肩を強く掴んでいた。平静を装おうとしているのは、誰の目にも明らかだった。何より、俺には彼女の魂語が聞こえてしまう。『母上が乗っている。理由は分からないけれど、間違いない。これほど近くにいるのに、どうして竜血の気配を感じなかったの。兄上は、母上に何をしたの……』「フィーネ。向こうの貨車に乗っている竜が、ガルディア皇帝かどうか分かるか?」「名前までは分からないけど、お姉ちゃんとよく似た音がするよ。でも、お姉ちゃんより低くて、ずっと我慢してる音。大きな鎖が心臓に巻きついて、力を少しずつ吸ってるみたい」フィーネは耳を澄ませるように目を閉じたが、すぐにつらそうな顔で胸を押さえた。「向こうの竜、眠ってないよ。起きてるのに、動けないふりをしてる。それから、こっちの貨車が近づいてることも知ってるよ」「母上と話す方法はないの?」リシアがロランへ詰め寄ると、彼は運転台の認証板を確かめながら首を振った。「対向貨車との通信回線は閉じられています。こちらの制動術式も受けつけません。速度はさらに上がっており、このまま進めば、およそ四半刻後に合流地点で衝突します」「四半刻とは、どのくらいだ?」「正確な砂時計がありませんので断言できませんが、人間の会話で百を十回数えるほどです」十五分前後と考えてよさそうだ。その短い時間で、こちらの貨車を止め、対向貨車から皇帝を救い出さなければならない。失敗すれば、狭い地下坑道で二台の鉄の箱が正面から衝突する。俺は運転台の認証板へ手を置いた。古い魔導貨車に刻まれた命令は、ベルガ砦
第20話 聖女は、勇者の所有物ではない『遥人さん、助けてください。私の名前が、私の中から消えていきます』遠く離れた帝都にいるはずのセナの声が、左手の真銀の環を通じて聞こえてきた。もっとも、それはリシアの魂語ほど鮮明な声ではなかった。水の底から必死に呼びかけているように途切れ、耳を澄ませなければ言葉として拾えない。なぜセナの声が、リシアとの契約によって生まれた環へ届いたのかも分からなかった。ただ、聞き間違いで済ませられるような悲鳴ではない。「待ってくれ、セナ。今、そちらへ繋ぐ方法を探す」俺が左手に呼びかけると、リシアが不安そうに眉を寄せた。「セナの声が聞こえるの?」「ああ。ただし、魂語とは違う。君との繋がりに入り込んでいるというより、別の術式を通って届いているような感じだ」万象通訳で真銀の環に重なった術式を読み取ると、見覚えのある命令文が浮かび上がった。以前、王国がセナの身体へ埋め込んでいた殺害術式を解いたとき、俺は彼女の命を繋ぎ止めるため、その命令の一部を書き換えている。消えろ、という命令を、生きろ、という意味へ翻した。そのときに残った俺の力の痕跡を、何者かが逆に辿っているらしい。「怜央の中にいる奴は、セナの名前を奪うために、俺が書き換えた術式を利用している。セナが助けを求めるほど、俺との繋がりを見つけやすくなる仕組みだ」「つまり、あちらはセナだけではなく、あなたの名前まで引きずり出すつもりなのね」「たぶんな。俺が応じれば、向こうに居場所を知られる可能性がある」魔導貨車はまだベルガ砦の地下発着場に停車している。ここで俺たちの位置を知られれば、王都へ向かう唯一の道を塞がれるかもしれない。ロランも同じ危険に気づいたらしく、厳しい顔で俺を見た。「出発前に申し上げるべきことではありませんが、王都の追跡術師は、一度掴んだ魔力の痕跡を街道の果てまで辿ります。ここで聖女殿へ返事をすれば、地下貨車の存在も知られるでしょう。我々だけならともかく、王都を救うための一行が途中で捕らえられては、結果として何万もの命を
第19話 母を救う者と、勇者を救う者「あの人は勇者のお兄ちゃんを器にしたんじゃないよ。勇者のお兄ちゃんの名前を食べて、自分が神崎怜央になろうとしてる」フィーネの言葉を聞いても、俺にはすぐ意味が理解できなかった。身体を奪うのではなく、名前を奪う。黄金の鐘が兵士たちに行っていたことを考えれば、始祖竜の力を盗んだ古代の王が何をしようとしているのか、想像できないわけではない。それでも、怜央の身体を乗っ取ることと、怜央本人になることの違いが分からなかった。「それはつまり、怜央の記憶まで食べて、本人のふりをするということか?」「それだけじゃないよ。名前には、その人が誰に呼ばれてきたのか、誰と会って、誰に好きになってもらって、誰を傷つけたのか、そういうものが全部くっついてるの。黒い冠の人は、それを食べて自分のものにしようとしてる。全部食べ終わったら、世界のほうがあの人を神崎怜央だと思うようになるの」フィーネは上手に説明できないことが悔しいのか、眉を寄せながら自分の胸を押さえた。「そうなったら、本当の勇者のお兄ちゃんは、最初からいなかったことにされちゃう。お兄ちゃんたちが覚えていても、会ったときには、どっちが本物なのか分からなくなるかもしれない」怜央を好きだったわけではない。むしろ、俺を追放したあいつを恨んでいないと言えば嘘になる。俺が雪原へ捨てられると決まったとき、怜央には止める機会があった。王命には逆らえなかった、仲間を危険にさらせなかった、俺なら一人でも生き延びられると思った。あとから本人が並べた理由には、それなりの事情があったのだろう。けれど、捨てられた側にとって、事情は傷を消す薬にはならない。助けたいという気持ちの隣で、俺を見捨てた人間のために命を懸ける必要があるのかという、冷たい声も聞こえていた。そんな自分を責めるほど、俺は立派な人間ではない。「遥人、顔色が悪いわ。鐘の影響が残っているのなら、少し休みなさい」リシアに言われ、俺は自分が強く奥歯を噛みしめていたことに気づいた。「身体は大丈夫だ。ただ、怜央を助けたいのかと聞かれたら、
第18話 奪われた名前を、俺が呼び戻す白衣の男が振り上げた槌は、鐘楼の窓から差し込む夕日を受け、刃物のような光を放っていた。一度目の鐘でさえ、広場にいた竜族の兵士たちは立っていられなくなった。二度目をまともに鳴らされれば、リシアだけでなく、ヴァルガンたちの命まで奪われる。そう理解していても、俺の腕の中ではリシアの身体から力が抜け続けており、彼女を地面へ置いて駆け出すことなどできなかった。「ずいぶん勝手な鐘だな。人の婚約者を奪うなら、せめて持ち主に断ってからにしてくれ」強がりではなかった。怖くないはずがないのに、俺の口から出たのは自分でも呆れるほど平凡な文句だった。白衣の男が槌を振り下ろす。その瞬間、俺たちの後方から炎をまとった長槍が飛んだ。槍は白衣の男には届かなかったものの、鐘を叩こうとしていた槌の柄を横から弾き、狙いをわずかに逸らした。「無駄口を叩く暇があるなら、彼女を守れ、通訳殿! 私が力を失っているからといって、婚約者候補の座まで譲ったつもりはないぞ!」片膝をついたアレクシオが、投げ終えた右腕を苦しそうに押さえていた。強気な顔を保ってはいるが、額には脂汗が浮かび、呼吸も乱れている。それでも彼は、俺たちを守るために残った力を使い切ったらしい。槌は鐘の中央から外れ、その縁を浅く擦った。澄んだ音ではなく、巨大な獣が喉の奥で呻くような音が砦中を這い回った。胸の内側を見えない手で掴まれたような苦しさに襲われ、地下から現れた兵士たちが一斉に顔を上げる。俺にも鐘の力は届いていた。ただ、リシアたちとは聞こえ方が違った。頭の奥へ押し込まれてきたのは痛みでも衝撃でもなく、意味を持った命令だった。――名を捨てよ。過去を捨てよ。己を捨て、王の器となれ。「違う……この鐘が奪っているのは、魔力だけじゃない」「お兄ちゃん、分かるの?」フィーネは俺の外套を握りしめながら、怯えた目で黄金の鐘を見上げていた。あれが父親の骨から作られたものだと知ったばかりなのだから、怖くて当然だ。それでも逃げずに俺のそばへ立って